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コラム

コラム:進歩性における「予測できない顕著な効果」について

知財系 Advent Calender 2024 12/12

 今回のコラムでは、進歩性の判断において、「予測できない顕著な効果」ないしは「効果」という要素そのものを、どのように扱うべきかについての自論を述べたいと思う。

 ご存じの方も多いだろうが、「予測できない顕著な効果」については既に独立要件説と二次的考慮説という2つの説が対立している。しかし、私は、このどちらの説にも与しない自説を持っており、これが最も適切な考え方だと個人的に思っている(だから自説であるわけだが)。

 さて、少し大仰な話になり脱線していると思われるかもしれないが、最初に、我々は「法律に何を要求するか」という話を少しだけしてみたい。

 法は社会秩序を守るために社会一般に適用されるものであるが、社会の中で生ずる問題は多種多様であるため、法律が、あらゆる問題を解決する万能なツールでないことは周知であろう。そのために、社会の変化に応じて法律はその内容を変えたり新たに作られたりしていく。

 法律に何を要求するかと聞かれて即答できる人はあまりいないかもしれない。この問いには多様な回答が存在するだろうが、ここではコラムの内容との関係から、一つの回答として「安定性」を挙げてみよう。

 法律は安定して適用されなければならない。まさにその通りであり、判断の仕方がよくわからなかったり、判断に迷ったりすると、その分だけ法の適用は不安定になっていくだろう。不安定な法律によっては、社会の秩序を統制することはできないため、法律はなるべく安定して適用できる内容のものでなければならない。
 しかしその一方で、性質上、誰もがわかるような方法を定めることができず、曖昧性を除いた判断ができないような事柄もあり、そのような事柄については、どうしても不安定な部分を残してしまうことになる。まさに特許法における「進歩性」がこれの良い例である。

 “当業者が容易にすることのできた発明といえるか否か”(条文の言葉では「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が前項各号に掲げる発明に基いて容易に発明をすることができた」といえるか否か)

 「容易に」という感覚的な要素は何とも安定性を欠いているが、「産業の発達に寄与する発明」を保護するという特許法の法目的(趣旨)からして既に「どのような発明であれば産業の発達に寄与するといえるか」という価値判断にならざるを得ない基準を掲げているため、保護すべき発明のボーダーラインがある程度不安定なものになることは性質上仕方のないことである。

 そうはいっても、「不安定なのだから仕方ない」ではなく、不安定なりにもなるべく安定するように法令を規定することは非常に重要であり、その意味では、(法令ではないものの)特許庁の審査基準は安定した法の適用に最も資するものといえるだろう。

 法律に「安定性」を要求する志向が強い方にとっては、二次的考慮説よりも独立要件説の方が優れた説と感じるように思う。進歩性を認める別個の要件として「予測できない顕著な効果」を置く方が、判断が簡単でぶれにくいからである。
 それでは私はどうかというと、確かに法は安定的に作用すべきものである。しかし、私にはそれよりも優先されるものがあり、それは、法の「本質的な目的」である。

 ある規定AとBがあって、規定Aは「その法の本質的な目的からは少し逸れてしまう代わりに、より安定的に法を適用できる」規定であり、規定Bは「安定性にはやや欠けるが、法の本質的な目的からは逸れない」規定であったとする。実際には規定の内容にもよるだろうが、この場合にどちらの規定を優先すべきかと問われれば、私は規定Bと答える傾向にあるだろう。

 なぜこのような話をしたかというと、私が、法の本質的な目的を重んじる考えであり、本質的な問題からアプローチすることを好む本質論者であるということを最初に示しておくことが、この先の話をする上で重要だからである。
 この後の自説を読んでいく上で、「弁理士Xは本質論が好きだからこんな話をしているのだな」と頭の片隅にでも置いていただけると、私の言いたいこともより正確に読者に届くと信じている。私は、自身の説に賛成して欲しいわけではなく、反対の意見であっても全く構わないと思っているが、それは自身の説をきちんと理解してもらった上でのことであって欲しい。不十分な理解の上の賛成よりも、十分な理解の上の反対を好むのである。

 さて、ここからは「本質的な問題」「独立要件説の問題」「最高裁判例と独立要件説の関係」「二次的考慮説の問題」「弁理士X説」「弁理士X説と最高裁判例(判決の拘束力)との関係」といった流れで、順序立てて話していくことにする。

1.本質的な問題

 私はこれから一つの事例を挙げて、特許法は、この発明を保護すべきか、という話をする。私は特に独立要件説を嫌っているのであるが、その理由は、独立要件説は、この事例で私が感じる問題点を全く克服することができず、それが私にとっては許容し難い本質的な問題といえるからである。

 つまり、裏を返せば、この事例の問題が、この記事を読まれている方にとってたいした問題でないならば、そもそも私の自説は馴染まない可能性が高いだろう。それはそれで構わないし、「この発明を保護すべきか」という問いに対する答えが一つにまとまるとは限らない。

<事例>
 ある技術者X、Y、Zの三人がいた。三人の技術者は、同じ技術分野に属するものであり、従来技術(従来発明「構成A+Bを有する物P」)に関し、最近公開された論文によって、新たな「構成C」を適用することで効果Eが生ずる可能性を知った。
 そこで三人の技術者X、Y、Zは、それぞれが互いのことを知らない状態で、従来技術に対し新たな構成Cの適用を試みた。当業者であれば、構成Cの具体的な適用に、構成C1、C2、C3の3つの候補があるだろうと考えことは自然な発想であった。また、技術的な側面からみても、これらの候補に特に優先順位はあるとは考えられていなかった。
 技術者Xは構成C1を選択し、技術者Yは構成C2を選択し、技術者Zは構成C3を選択して、それぞれ物Pに対して構成Cの適用を試みたところ、構成C3だけが、構成C1やC2に比して、著しく優れた効果Eを生じさせた。
 三人の技術者X、Y、Zはそれぞれ「構成A+B+C1を有する物P」「構成A+B+C2を有する物P」「構成A+B+C3を有する物P」の特許出願をした。

 この事例で、技術者Zのした発明「構成A+B+C3を有する物P」を、特許発明として保護すべきといえるか。

 まず、共に公開されている従来技術と論文によって「構成A+B+Cを有する物P」に想到することは容易である(容易にすることのできた発明である)。また、構成C1、C2、C3の3つの候補があることは、当業者の自然の選択、つまり通常の創作行為の範囲内であるため、構成Cの具体的な適用として、「C1かC2かC3のどれかを選択すること」は、当業者に容易であったということもできる。つまり、技術者X~Zのしたそれぞれの発明は、その技術的な構成に容易に想到することができるものである。
 ここで問題なのは、これらの候補に優劣はなく、選択の確率は1/3ずつであったという事情である。技術者XやYも1/3の確率でC3を選択し得たわけだが、彼らは今回たまたまC1やC2を選択したに過ぎない。そして、技術者ZがC3を選択したことも同様に偶然でしかなく、単なる「運」でしかない、という事実である。

 その結果、通常奏すると予想できる範囲で効果Eが発生したC1とC2の適用については特許が認められず、偶然、他と比べて顕著な効果Eが発生したC3の適用については特許が認められるという帰結が、特許法の法目的である「産業の発達」に果たして貢献できるといえるだろうか。

 運も実力のうち

 そう考える方もいるかもしれない。しかし、「運」はあくまで運でしかなく、技術者Zには、技術者XやYに比して、何か異なる技術的な思想(技術的貢献に資する考え)があったわけではない。3人の技術者は、同じ技術思想のレベルで、ただ選択を異にしたに過ぎないのである。

 発明である「技術的思想の創作」を客観的に評価するときに「運」という要素が入り込む余地はない。主観的には、発明者による発明の創出過程において運の要素が入り込むということもあり得るだろうが、客観的な評価の中で、この主観的な事情を考慮する必要はないのである。よって、特許法がその発明の特許性を評価する際に、運よく顕著な効果を導いたことが、他を優遇する考慮要素となるはずはない、というべきである。

 そうであるならば、20年もの長期に亘って「構成A+B+C3を有する物P」という発明を技術者Zに独占させることは不当でないだろうか。運よく顕著な効果が見つかった「構成A+B+C3を有する物P」という発明は、運によるものなのだから、誰か一人に独占させるのではなく、寧ろ誰もが使えるように保護する(つまり、特許発明として保護しない)ことこそが、産業の発達に資するのではないか。

 私は、特許法が、この事例における技術者Zのした発明「構成A+B+C3を有する物P」を保護することがあってはならないと考えており、特許法は「運」の要素で保護の優劣をつける法制度であってはならないと考えている。従って、特許法の規定を、これに反するように解釈することは法目的に適っておらず、間違えた法解釈というべきというのが私の考えである。

 効果の一人歩きを助長してはならない。

 ここに、発明における「効果」をどのように評価すべきかという私の考えの原点がある。

2.独立要件説の問題

 独立要件説は、上記の「本質的な問題」を解決できない。それはそうなのだが、私はそれだけで独立要件説を嫌っているのではない。

 独立要件説の最も大きな問題は、それが法に規定されていないという点である。特許法29条2項に規定されるのは「当業者が容易にすることのできた発明」か否かであり、「予測できない顕著な効果」の有無ではない。また、効果というのはあくまで結果なのであり、発明を創作した後にわかる事柄であるため、発明を創作する仮定の中でこれを知ることはできない。
 独立要件説においては、「予測できない顕著な効果」が進歩性を認める独立の要件となるのであるから、正確にこれを表わすならば、発明の構成に容易に想到することができると否とにかかわらず、「予測できない顕著な効果」さえ認められれば、進歩性を認めるという考えである。
 従って、独立要件説の考えに立てば、先に構成の容易想到性を判断し、構成の容易想到性が認められた場合に、予測できない顕著な効果の有無を判断するというプロセスも必須ではなく、いきなり予測できない顕著な効果の有無を判断してもよいことになる。(先に、構成の容易想到性を判断し、構成の容易想到性が認められる場合に、予測できない顕著な効果の有無を判断するというフローは、いわば、作法的な意味を持つに過ぎない。)

 しかし、構成の容易想到性から切り離し、「効果」という要素のみから進歩性を判断するというのは、その創作物(方法)に対する技術的な評価を排除し、結果だけで発明性(進歩性)を評価するということであり、「当業者が容易にすることのできた発明」という法の規定を無視しすぎている。

 より詳細にいえば「容易にすることのできた」という文言は、明らかに創作の過程を評価する規定であって、創作の過程を切り離し、効果だけを進歩性具備の独立の要件として判断することは、何ら条文に規定されていない独自の判断と言わざるを得ないのである。その意味で、独立要件説は、条文の規定を超えた超法規的な措置を認める立場と言ってもよいだろう。(人の生命にも関わらない、あくまで産業政策である特許法において、超法規的な措置を取る必要が生じるなど、およそありえない)

 このような話をすると、おそらく独立要件説の立場の方は「独立要件説を認めた最高裁判例があるではないか」という批判の声が挙がるだろう。しかしながら、平成30年(行ヒ)第69号は、最高裁が独立要件説の立場を採ったと解することのできる判例ではない、と理解すべきであるため、批判の根拠とはならないと私は考えている。

 そこで次に、最高裁平成30年(行ヒ)第69号と独立要件説の関係についてを話す。

3.最高裁判例と独立要件説の関係

 最高裁判例、平成30年(行ヒ)第69号は、最高裁が独立要件説の立場を採ったもの、と考えている方に対し、私の考えを率直に言わせて貰うと、根本的に判例を読めていない、ということになる。

 このことを説明する前に、まず、基本的な三権分立の話をすべきであろう。

 たとえば、最高裁判所が「予測できない顕著な効果が生じる発明については、例外的に特許法29条2項の進歩性を認める」と判断したとすると、この判断は極めて違憲(憲法違反)である可能性が高い。なぜならば、このような判断は、法律に規定されていない新たなルールを創設するものであり、法解釈ではなく、立法行為に等しいからである。

 我が国は三権分立であり、司法、立法、行政がそれぞれ独立している。憲法41条は「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と規定しており、国会が唯一の立法機関であるとされている。従って、司法権たる裁判所が立法行為を行うことは憲法に違反し、許されないのである。

 そうすると、仮に、最高裁判所が独立要件説の立場から「予測できない顕著な効果」を特許法29条2項の進歩性の解釈に当てはめるにはどのような判断を示さなければならないか。
 司法権たる最高裁判所はあくまで、条文の適用解釈の範疇で「予測できない顕著な効果」を扱わなければならないのであるから、「予測できない顕著な効果を生ずる発明は、当業者が容易にすることのできた発明とはいえない」ということを述べなければならない。そして、当然ながら、この結論を導くことのできる理由(解釈の根拠)を述べなければならない。

 下級審では、「発明の構成に至る動機付けがある場合であっても、優先日当時、当該発明の効果が、当該発明の構成が奏するものとして当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものである場合には、当該発明は、当業者が容易に発明をすることができたとは認められない」といったことが述べられることがある。
 しかしここには、予測できない顕著な効果がある発明が、なぜ当業者が容易にすることのできない発明なのかについての理由がない。これは、下級審レベルだから許される粗雑な論理である。法律審としての終審裁判所である最高裁判所ではないため(その責任と重圧を背負わないため)、少し乱暴な言い方をすれば、根拠の伴わない意見を無責任に述べているに過ぎない。

 既に述べているが、特許法において発明は「技術思想の創作」であり、29条2項は「当業者が容易にすることのできた発明」か否かによって進歩性を判断することを規定している。
 発明が「技術思想の創作」である以上、発明が出来上がった時点とは、創作が完了した時点である。そうすると、容易にすることができる発明とは、容易に創作を完了することのできる発明である。従って、発明の構成に至る動機付けがある場合とはその創作が容易に完了する場合に他ならないのであるから、発明の構成に容易に想到する場合とは「当業者が容易にすることのできた発明である場合」に等しい。
 そうすると、上述の下級審で述べられる解釈を条文に即して当てはめるならば、「当業者が容易にすることのできた発明であっても、発明の効果が、予測できない顕著なものである場合には、当該発明は、当業者が容易に発明をすることができたとは認められない」ということになり、論理矛盾が生じていることは明らかなのである。

 このように、法の適用解釈とは、予測できない顕著な効果があれば29条の進歩性は具備されるという乱暴な判断をすることではなく、なぜ、予測できない顕著な効果のある発明が、条文に即して「当業者が容易にすることのできた発明ではない」といえるのかを述べることなのであり、法律審である最高裁判所は、この責任を十分に理解した上で、判決を述べているはずである。

 このような根本(基本)に立ち返った上で、下記の最高裁の判旨を読んでみると、どこにも「予測できない顕著な効果が認められる発明は、当業者が容易にすることのできた発明ではない」などといったことを述べるような内容が見つからないことは明らかであろう。それゆえに、最高裁平成30年(行ヒ)第69号が独立要件説に立ったといえるような判例でないのである。

「原審は,結局のところ,本件各発明の効果,取り分けその程度が,予測できない顕著なものであるかについて,優先日当時本件各発明の構成が奏すものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討することなく,本件化合物を本件各発明に係る用途に適用することを容易に想到することができたことを前提として,本件化合物と同等の効果を有する本件他の各化合物が存在することが優先日当時知られていたということのみから直ちに,本件各発明の効果が予測できない顕著なものであることを否定して本件審決を取り消したものとみるほかなく,このような原審の判断には,法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。」

 結局のところこの判旨は、「予測できない顕著な効果」の検討の仕方に誤りがあるとしか言っていない。「優先日当時本件各発明の構成が奏すものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討」せずに、「予測できない顕著な効果」の有無を判断したことが、誤りであると言っているに過ぎないのである。
 原審の判断が「本件化合物を本件各発明に係る用途に適用することを容易に想到することができたことを前提とし」たものであったこと、このことそれ自体を誤りとは述べておらず、原審の判断の仕方が全体として、上記の観点から十分な検討をしてしないものであったことが誤りである述べていると読むのが適切であろう。

 つまり、この最高裁判例から導けることは、第一に、進歩性の判断において「予測できない顕著な効果」が一つの考慮要素であること、そして第二に、予測できない顕著な効果は「優先日当時本件各発明の構成が奏すものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討」して判断すべき事項であること、の二つであり、決して、「予測できない顕著な効果」が認められさえすれば、如何なる場合であっても進歩性は具備されるといった独立要件説の立場を述べているのではないというべきである。

4.二次的考慮説の問題

 独立要件説を嫌う私にとって、二次的考慮説の方が私の考えと親和的である。というより、「それなら二次的考慮説の立場を採ればいいじゃないか」とも考えられるわけだが、二次的考慮説にも問題はある。

 パテント2024年6月号の大鷹一郎先生の論考「発明の進歩性の判断における「効果」に関する考察」の言葉を借りれば、二次的考慮説とは、次のようなものである。

「発明の進歩性は、発明の「構成」を容易に想到し得ない場合をいうとの判断枠組みの下で、発明の効果を二次的な考慮要素として斟酌し、主引用発明に副引用発明等を適用して対象発明に至る動機付けがあり、発明の構成自体が容易に想到されるといえる場合であっても、予測できない顕著な効果がある場合はこれを反対方向の事情として考慮することにより、当該構成は容易に想到することが困難であったと評価し、発明の進歩性が肯定され得るとするもの」

 また、同誌同号の田村義之先生の論考「進歩性(非容易推考性)要件における二次的考慮説の現在地~プロキシ―としての「顕著な効果」論~」では、二次的考慮説について次のように述べられている。

「二次的考慮説は、発明に顕著な効果があるにもかかわらず、これまで発明されていなかったということは、発明をなすことが困難であることを推認させるから、あるいは、効果を予測しえない場合には発明をしてもそれが成功する合理的な期待がないから、これを考慮することが許されるのだと理由付ける。これに対して、独立要件説は、当業者が引例から発明の構成を容易に想到しうるとしても、当該構成に顕著な効果がある場合には特許権を与えるべきであると考える見解である。」

 このように、二次的考慮説と独立要件説はどちらも「発明の構成自体が容易に想到される」ことを前提とし、単に、進歩性判断において「予測できない顕著な効果」をどう位置付けるべきかの違いがあるに過ぎない。そのため、二次的考慮説であっても、私が冒頭に挙げた「本質的な問題」が解決できないことに変わりはない。

 また、二次的考慮説は、独立要件説とは違い、確かに「効果」を独立の要件とするものでない以上、「効果」を発明の創作から切り離していることにはならないが、二次的考慮説において最も説明を欠いている点は、「なぜ、予測できない顕著な効果を二次的に考慮するのか」という点であろう。
 構成の容易想到性の判断においては、本件発明と引用発明の構成を機械的に対比するのではなく、技術分野、課題、作用/機能、効果なども考慮される。それにもかかわらず、なぜ構成の容易想到性とは別に、また、構成の容易想到性で考慮された「効果」とは別に、あらためて「予測できない顕著な効果」だけを二次的に考慮するのか。

 二次的考慮説が、条文に即し、「当業者が容易にすることのできた発明とはいえない」との結論に結び付けようとしている点は評価できるが、やはり、十分に納得のいく論理が構築されているとは言い難い面があるだろう。

 このことは、二次的考慮説を正当化しようとする「発明に顕著な効果があるにもかかわらず、これまで発明されていなかったということは、発明をなすことが困難であることを推認させるから」といった部分や「効果を予測しえない場合には発明をしてもそれが成功する合理的な期待がないから」といった部分の説明にも表れている。
 先にも述べたように、効果は「結果」であるから、創作をしてみるまではわからないのである。そのため、「顕著な効果があるにもかかわらず、これまで発明されていなかった」という捉え方自体がそもそも発明のズレた捉え方というべきであろう。「顕著な効果があるならば、通常は、もっと早く発明されていたはずである(既に発明されていたはずである)」という前提の発想自体がおかしい。
 当業者の時間軸は、「発明をし、その効果を調べてみたら顕著な効果が表れた」という流れであるのだから、少なくとも、当業者の認識において、発明をなすことの困難性と顕著な効果は関係しない。結果的に顕著な効果があったから、それ以前における発明の創作が困難であるという認識には至らないのである。
 同様に、「発明が成功する合理的な期待がないから」というのも論理的におかしい。発明者は通常、どんな効果が生じるかわからないけどとりあえず何か創作してみた、といった経緯で発明などしない(「パルプンテ」を唱えるように発明をするわけではない)。「予測できない効果」の典型は、効果Aの発生を期待して発明をしたが、その結果、予測していなかった効果Bが生じた、とか、効果Aの発生の程度が予測を遥かに上回るものだった、いうもののはずである。そうすると、効果Aが生じるだろうという合理的な期待はあったのであるから、合理的な期待がなかったということはできず、このような理由付けも、発明の実態を無視した机上の理論と言うべきだろう。
 また仮に、どんな効果が生じるかわからないけどとりあえず何か創作してみた発明者がいたとして、このように効果が予測しえない場合における発明者にとっての「発明の成功」とは何なのか。少なくともその効果を予測できないのであるから、発明者に認識においてその効果の発生が「発明の成功」であるはずがない(認識できないものを成功の指標とできるはずがない。)。そうすると、効果を予測できない発明者にとっての「発明の成功」は必然的に、効果が確認される前、つまり、創作が完了した時点で達成されていることになるだろう。従って、この場合にも「合理的な期待がない」とはいえず、効果が予測できないのであれば、発明者の認識においては、どのような効果が生じるかによらず「発明の成功は合理的に期待されていた」と考える方が合理的である(そうでなければ、発明者がその発明をした理由を説明できない)。

 このように、二次的考慮説は、何とかして条文に結び付けようとするあまり、当業者の実態とかけ離れた創作思考で強引な正当化を図ろうとしてしまっているきらいがある。

5.弁理士X説(総合考慮説における課題修正説)

 最初に結論から述べると、私の考え方は、進歩性の判断は、条文に即し、「当業者が容易にすることのできた発明」といえるか否かによって判断すべきであり、発明が「技術思想の創作」である以上、「当業者が容易にすることのできた発明」とは、「当業者が容易にすることのできた技術思想の創作」であり、つまり、「構成の容易想到性が認められるならば、進歩性はない」とすべきという立場である。

 わかり易く言えば、効果ないしは予測できない顕著な効果も含めた全ての考慮要素を、「構成の容易想到性」の判断の中で総合的に考慮し、構成の容易想到性の判断を以て、当業者が容易にすることができた発明(創作)であるかを判断すべきという考えである。

 独立要件説のように超法規的に「予測できない顕著な効果」を扱うのでもなく、二次的考慮説のように一次的に効果を考慮した上で、さらに二次的に「予測できない顕著な効果」を扱うのでもない。
 このような条文の規定から離れた法律構成を採るのではなく、効果ないしは予測できない顕著な効果を「構成の容易想到性」の判断の中で扱えばよいのであって、これが最も法(あるいは法治主義)に適った考え方だと思っている。

 問題は「構成の容易想到性」の判断の中で、どうやって「予測できない顕著な効果」を評価するか、という点である。

 冒頭から申し上げているように効果とは「結果」であって、創作の後にわかることである。従って、効果をそのまま創作の評価に用いることは難しい(これを正当化する論理的な整合性の確保が難しい。)。しかしながら、発明(進歩性)の評価はあくまで「当業者」による客観的評価であるのだから、発明者が完成させた発明を、その発明の効果を踏まえた上で、俯瞰した立場から客観的に捉え直すことは全く問題ないといえるだろうし、寧ろそのように捉えるべきである。

 従って、生じた効果を踏まえた上で発明を捉え、客観的にその容易想到性を判断すべきであり、効果を踏まえて見つめ直すべき対象=修正され得る対象として考えられるのは「発明の課題(目的)」といえないだろうか。(∵創作したものそれ自体を修正することはできない)

 例えば、ある発明者が、課題Aを解決するために予測の範囲内にある効果αが生じることを期待して発明1をしたとする。このとき、発明者の創作しようとした発明1は、「効果αを生じさせて課題Aを解決する発明」と考えることができる。
 ここで実際に、この発明1によって期待通りの効果αが生じたとすれば、当業者の客観からみても、発明1は「効果αを生じさせて課題Aを解決する発明」のままということになる。
 それでは、この発明1によって効果αではなく、予測できない顕著な効果βが生じたとするとどうなるか。たとえ発明者の期待した発明1が「効果αを生じさせて課題Aを解決する発明」であったとしても、客観的に創作された発明1は「予測できない顕著な効果βを生じさせて課題Aを解決する発明」となっているのであり、発明1はこのように評価されてよいはずである。

 このように、発生した効果との関係で発明の課題を捉え直し、構成の容易想到性を判断する進歩性の判断方法を、本記事では便宜的に「課題修正説」と呼ぶことにするが、本質的には、課題というよりも、課題や効果を踏まえて本発明の技術的な意義(価値)を捉えているという見方の方が正確かもしれない。

 それでは、このように評価した上で、実際に構成の容易想到性を評価するとどうなるか。

 例えば、従来技術において「10の効果を得て課題Aを解決する発明2」が知られていたとする。しかし、この発明2は「100の効果を得て課題Aを解決する発明1」をする際には、従来技術として有効に働かない可能性が出てくる。
(抽象的な例えなので、もう少し具体的にイメージをしたいなら「体内のある悪性ウィルスを10%死滅させて、特定の疾患Aを治療する治療薬2」と「体内にある悪性ウィルスを90%以上死滅させて、特定の疾患Aを治療する治療薬1」に置き換えてみるとよいかもしれない)
 当業者が「10の効果が得られるなら、この知見をベースに100の効果を目指せるかもしれない」と期待できるならば、容易想到性の判断において発明2は有効な従来技術となり得るだろうが、当業者が「10の効果しか出ないなら、ここから100の効果を目指すのは相当ハードルが高い」と通常考えるならば、容易想到性の判断において発明2は有効な従来技術とならず、寧ろ、100の効果を得る発明1に想到しようとする上では、「そんなのできっこない」というネガティブな要因になるだろう。

 このように、課題修正説の判断アプローチを採ると、同じ課題Aを解決する発明であっても、生じた効果から客観的に発明を捉え直すことで、予測できない顕著な効果が生じた場合には、従来技術が引用文献としての適格性を失うことがあり得るのである。つまり、効果の予測性や顕著性を、発明の創作過程における容易想到性の判断材料に転化させることができるのである。
 また、「効果」の側面から発明を客観的に評価するプロセスは、全ての事案において平等に適用できるため、「予測できない顕著な効果」だけを特別扱いする必要はない。(「予測できない顕著な効果」だけを切り離して評価する必要もない。)
 結果として、生じる効果が通常のもの(当業者の想定する範囲内)であれば、「そのような効果を生じさせる発明」であることが、構成の容易想到性に与える影響は(無視できるくらいに)小さくなるのである。

 それでは、平成30年(行ヒ)第69号に係る事例ではどうなるか。なお、私はこの事件の当事者でも代理人でもなく、この事件の特許に属する技術のスペシャリストでもないため、多分に推測が入り間違った認識も入るかもしれないが、その点はご容赦頂きたい。

 本件発明は「局所的眼科用処方物」であり、本件発明に係る本件化合物によって、局所的眼科用処方物に適用できる公知の他の化合物が奏するヒスタミン遊離抑制効果と同等の効果を得ることができたのであるから、本件発明は、単に「アレルギー性眼疾患を処置するための標的細胞であるヒト結膜から得られる肥満細胞に対して安定化活性を示す、局所的に投与可能な薬物化合物」ではなく、「公知の他の化合物が奏するヒスタミン遊離抑制効果と同等の効果が得られ、アレルギー性眼疾患を処置するための標的細胞であるヒト結膜から得られる肥満細胞に対して安定化活性を示す、局所的に投与可能な薬物化合物」と評価することができる。
 また、本件化合物が、ヒト結膜肥満細胞からのヒスタミン遊離抑制作用を有するか否か及び同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかについて、当業者はこれを予測することができなかった。(ここは裁判所の認定判断を踏襲している)
 このような状況の下で、たとえ、「ヒスタミン遊離抑制効果の有無や程度を考慮しなくてよいのであれば、本件化合物を適用する動機付けがあった」といえるにしても、「公知の他の化合物が奏するヒスタミン遊離抑制効果と同等の効果が得られるような局所的眼科用処方物」として、当業者に本件化合物を適用する動機付けがあったといえるかを検討する。これが課題修正説による進歩性判断の仕方である。

 この判断は、(ヒスタミン遊離抑制作用を有するか否かとの関係で)本件発明の局所的眼科用処方物においてヒスタミン遊離抑制効果がどれくらい重要な効果という点や、(同作用を有する場合にどの程度の効果を示すのかとの関係で)本件化合物によって得られたヒスタミン遊離抑制効果が、既に知られている多数の他の化合物のそれぞれが奏する効果と比較して、どれくらいの順位にあるのかといった点を考慮して行うべきであろう。

 例えば、局所的眼科用処方物として機能する上で、ヒスタミン遊離抑制効果が必須に近いレベルで要求される効果ならば、そもそも局所的眼科用処方物に適用する時点で、その効果の発生は期待されるはずであるから、本件化合物による効果の発生が予測できないものであったとしても、それだけで動機付けを否定することはできない。(予測可能性はなくても期待可能性が強ければ動機になり得る)
 一方で、その処方物において常に要求される効果ではなく、副次的/選択的な効果であるとすると、その効果の有用性を考慮すべきである。その効果に対する要求が低く、別にあってもなくてもどちらでも構わないといえるような効果ならば、当業者は、発明の創作過程においてその効果の発生に拘らないのであるから、その効果が発生したことは意識の外側における結果(いわば「運」)であるといえ、そのような効果の発生が動機付けに影響するとは考え難い。(発生した効果の程度が顕著なものであったとしても、動機付けに影響しづらいと言えるだろう。)
(本件の事案とは離れてしまうが、仮に、既存の局所的眼科用処方物には見られない効果であり、局所的眼科用処方物においてそれなりに有用な効果であるといえるならば、当業者には、その有用な効果の発生を欲する理由があるといえ、かつ、その効果がどのようにして生じるかは未知だったのであるから、その中で、本件化合物を選択し、適用する動機があったとはいえず、容易に想到することはできないと判断できるだろう。)
 それでは、本件化合物によって生じるヒスタミン遊離抑制効果が、既に知られている他の化合物との関係で、中レベル(中順位)や低レベル(低順位)であるといえる場合はどうか。既に既存の効果として知られているのであるから、本件化合物を適用する上でも効果の発生は期待できるであろうし、また、その程度の効果ならば生じたとしてもおかしくはないと当業者は思えるだろうから、やはり動機付けを否定することは難しくなるだろう。
 一方で、効果の程度が上位のレベルにあるといえるならば、多数の他の化合物が存在し、相対的にヒスタミン遊離抑制効果が低い化合物もそれなりの数がある中で、本件化合物によって「まさか上位レベルの効果が得られるだろう」とは思わないと当業者が考えることもおかしくはない。そうすると、当業者において、本件化合物を適用することが、「公知の他の化合物が奏する上位レベルのヒスタミン遊離抑制効果と同等の効果が得られるような局所的眼科用処方物」の発明に想到する動機となるとは考え難く、よって、当業者は、本件化合物を適用して本件発明に容易に想到することはできない、という結論を導くことも可能であろう。
 つまり、この場合、既存の他の化合物による効果と比較して上位レベルの効果を奏するということ自体が「顕著な効果」と評価される。また、本件化合物による効果の程度が未知なこと(予測しがたいこと)や、より低いレベルの効果を奏する化合物が一定数いることなどの事情は、顕著な効果との関係で動機付けを否定する要因となるのである。
 なお、さらに別の事情が存在すれば、必ずしも同じ結論になるとは限らない。効果の程度としては中レベルであっても、そもそも中レベルの効果を得ることすら簡単なことではないといった事情があるならば、効果の程度が中レベルであっても動機付けは否定され得るだろう。

 このように、課題修正説から進歩性を判断することで効果を「構成の容易想到性」の中に落とし込むことができるだけではなく、当業者の視点(考え方)にも合った、より実態的な総合判断ができるのである。これは、創作の容易性から離れて効果が予測できないものであるとか顕著なものであるといったことだけを審理する無機質な判断とは、その性質を異にする判断であり、条文の規定する進歩性の判断により忠実ということができるだろう。

 それでは、課題修正説で考えた場合、私が本質的な問題と言った冒頭の事例はどうなるか。

 C1、C2、及びC3のうち、予測できない顕著な効果を生じさせたのはC3だけであったが、当業者において、C1やC2においてどの程度の効果が生じるかはわかっていなかったのであるから、C1及びC2という選択肢の存在が、C3の選択を妨げる要因にはならないし、C1やC2でも予測できない顕著な効果が発生したかもしれない。従って、C3の適用により予測できない顕著な効果が発生したことは、当業者がC3を選択すること(想到すること)の困難性にほとんど寄与しておらず、「構成A+B+C3を有する物P」という構成には容易に想到することができるといえ、進歩性は認められないという結論になる。

 このように、課題修正説の論理構成であれば、予測できない顕著な効果を生じさせる発明に想到したことがおよそ「運」の要素によるものといえる場合には、その発明の進歩性が認められることはなく、産業の発達に資するように、誰もが自由に使えるという形で発明が保護されることになるのである。

6.弁理士X説(課題修正説)と、最高裁判例(判決の拘束力)との関係

 さて、課題修正説の考えは、最高裁平成30年(行ヒ)第69号の判断に抵触するか。

 上述の通り、最高裁判例が、①進歩性の判断において「予測できない顕著な効果」が一つの考慮要素であること、及び②予測できない顕著な効果は「優先日当時本件各発明の構成が奏すものとして当業者が予測することができなかったものか否か,当該構成から当業者が予測することができた範囲の効果を超える顕著なものであるか否かという観点から十分に検討」して判断すべき事項であること、の二つを法令の解釈として示したというのであれば、課題修正説は、これらの判示に何ら抵触するものではないといえるだろう。

 一方で、ここで考えておかなければならないのは「判決の拘束力」との関係である。

 つまり、この事件では、前訴確定判決により「構成に容易に想到すること」については拘束力(判決の拘束力)が働いている。よって、「構成の容易想到性」の中で判断しようとする総合考慮説(及びこれに与する課題修正説)では、判決の拘束力に抵触するのではないか。

 しかし、この点については、次のように説明することができるだろう。

 判決の拘束力は「判決主文が導き出されるのに必要な事実認定及び法律判断」に及ぶところ、前訴確定判決においては「効果、とりわけ予測できない顕著な効果の有無」については審理の対象とされていなかったのであるから、「予測できない顕著な効果の有無」についての事実認定に拘束力が及んでいないことが明らかであるだけでなく、進歩性(構成の容易想到性)の法律判断についても、あくまで「予測できない顕著な効果の有無」の事実認定を抜きにしてなされたものにのみ、拘束力が及ぶというべきである。
 仮に、本件発明において「予測できない顕著な効果の有無」が進歩性判断に影響を与える重要な考慮要素の一つであるとするならば、前訴確定判決は、本来的に審理すべき事項を審理せずになされたものといえるのであり、判決の拘束力は、このような場合にまで(審理不尽を無視して再審理を行わせるように)行政庁を拘束しようとするものではないし、新たに重要な考慮要素が加えられて進歩性の判断をし直すことは、確定した取消判決の判断自体を違法として非難することともいえない。
(なお、前審及び前訴において主張すべきであった事項を主張せず、再審理の場で新たな事項を主張することが許されるかという問題はあるが、これは「判決の拘束力」の問題ではなく、別途、審判であれば要旨変更の問題として、裁判であれば信義則や既判力(遮断効)の問題として扱うべき事柄であろう。)

 従って、課題修正説の考えに立ったとしても、最高裁平成30年(行ヒ)第69号との関係で矛盾抵触は生じないものといえる。

7.最後に(補足:最高裁後の下級審判例)

 これまで説明してきた通り、私の提唱する「課題修正説」は、少なくとも、私が「本質的な問題」と捉えている事態(運による技術の不当な独占を許すこと)を解決できる考えであり、私が独立要件説及び二次的考慮説のどちらも採らない理由も、これらの説ではこの問題を解決できない点にある。

 また、客観的にみても、課題修正説は、独立要件説や二次的考慮説に比べ、より忠実に、特許法29条2項(及び2条1項)の条文の規定「その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が前項各号に掲げる発明に基いて容易に発明をすることができた」に即していると言ってもよいのではないだろうか。

 そもそも「発明の構成には容易に想到するが、発明には容易に想到しない」というのが、便法であり詭弁であると私には感じられるのであり、構成に容易に想到する場合でも予測できない顕著な効果によって特許の保護を図りたいのであれば、それは新たな立法によって実現すべきであろう。このような詭弁に頼るのは、もはや法律解釈の域を超えた越権行為であり、法治国家が採るべき解決手段ではない。

 発明が「創作」であるならば、創作を評価する。創作の容易想到性を適切に評価するために、言葉で表現された創作だけを見るのではなく、課題や効果なども考慮要素も踏まえる。これらの考慮要素は、そのもの自体が発明(創作)なのではなく、創作の価値を判断するため、創作の本質を見極めるために用いられる。これが健全な進歩性判断の仕方ではないか。

 私はこのように考えるが故に、進歩性の判断は「構成(創作)の容易想到性」という一次的判断の中に収めるべきであり、独立であろうと二次的であろうと、この外側で進歩性を判断する考え方に対しては、消極的な意見を持っているのである。

 補足的(蛇足的)な話になるが、最後に、期待を込めて、近時の下級審判例に対する感想を述べておく。

 近時の下級審判例(最高裁平成30年(行ヒ)第69号以後の判例)では、技術分野に限らず、本来的にそこを議論する意味があまりないような事案であったとしても、進歩性判断の審理事項として積極的に「予測できない顕著な効果の有無」が挙げられるようになったように思える。
 これは、裁判所の努力(訴訟進行)というよりは、当事者側において、後出しのリスクを考慮して、当初から「予測できない顕著な効果」も主張しておくべき事項と捉えている優秀な代理人弁理士や弁護士が多いことの表れだと思っている。(それでもなお、進歩性を争う審判/訴訟の全件ではなく、一部において「予測できない顕著な効果」を主張しない事例は見られるが)

 その一方で、やはり裁判所において、「予測できない顕著な効果」を進歩性判断の枠組みの中でどう処理すればよいかについては迷いが生じているようにも思える。知財高裁においても、一部では、独立要件説に近い考えを採用し、判断手法として記載しているところもあるが、足並みが揃っているとはいえないだろう。

 しかし、実務として、「本件発明の認定」「引用発明の認定」「一致点及び相違点」「構成の容易想到性」「予測できない顕著な効果の有無」という順番で進歩性判断の項目が立ち、これに沿って審理判断が進められるやり方は、もはや定着しているといってよい。

 この定着した実務は、私の提唱する課題修正説とは極めて相性が悪い。(∵「構成の容易想到性」と「予測できない顕著な効果の有無」が分けられ、かつ。「構成の容易想到性」の後に「予測できない顕著な効果の有無」を判断するフローだからである。)

 そのため、仮にどなたかの裁判官から課題修正説の考えに賛同いただけたとしても、今更この定着した実務を崩してまで、課題修正説のアプローチから進歩性を判断することは、極めてハードルの高いことだと承知している。

 それでもなお、このハードルを越えて、課題修正説の考えに沿った判例が登場すれば私も本望であり、今日この日にこの記事を載せた甲斐があったと満足することもできよう。このような日が来ることを期待して、本記事を締め括らせていただくこととする。

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