今回のテーマは、特許法における「発明」とは何か、という何やら深そうにも思えるテーマである。
タイトルにもあるように、発明は「思想」なのか「創作」なのか、について私なりの意見を記していきたい。
なぜこのようなテーマを選んだのかというと、月刊パテント2024年6月にて、髙橋 淳弁護士が「進歩性判断における技術的貢献の位置づけ」という論考を寄稿しており、その中で「発明とは、自然法則を利用した技術思想をいい」と述べていたことが発端となっている。
この発言は、私にとってはかなりの衝撃であった。
なぜなら、特許法2条には「この法律で「発明」とは、自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のものをいう。」と規定されており、私は、発明とは「技術的思想の創作」であると理解しており、あくまで、直接的な評価対象は「創作」であるものと考えていたからである。
一方で、髙橋先生の論考は、発明を「技術思想」という思想レベルの抽象的対象と捉え、技術的要素(技術思想といえる)と被技術的要素(技術思想とはいえない)とに分け、思想に対する評価によって発明該当性を判断するアプローチを採っているように読める。
発明を「思想」で捉え、思想によって評価するというのは、興味深いアプローチではあるが、私の個人的な意見としては、やはり、発明は「創作」で捉えるべきであり、それが、条文の規定にも適っているのではないかと考える。
つまり、発明の評価とは、「思想」そのものを直接に評価するのではなく、直接の評価対象は「創作」であり、技術思想は「創作」の評価を通して考慮されるべきものであり、その創作がどのような技術思想から成されたかといった形で、発明の評価に技術思想が考慮されることは適当だが、創作から切り離した技術思想そのものから発明を評価するのは不適当ではないかと考える。
さて、発明は「思想」か「創作」かを考察する上で、非常に面白い素材(判例)がある。
令和5年(行ケ)第10110号(令和6年6月27日判決)では、以下の請求項15における下線部の発明特定事項の評価が争いとなった。
【請求項15】
画像データを取得するための方法であって、
口腔内表面サンプルに関して、光コヒーレンス断層撮影(OCT)データを取得することと、
前記口腔内表面サンプルからカラー反射率画像コンテンツを取得することと、
登録を通じてまたは登録を通じずに前記カラー反射率画像とOCTデータコンテンツとを結合することと、
結合されたカラー反射率画像およびOCTデータコンテンツをディスプレイ上に描画することと、
を備える、方法。
この事例は、特許庁の拒絶審決に対する取消訴訟であり、審決は下線部について以下のように述べた。
「本願発明の構成要件Dの「登録を通じてまたは登録を通じずに」は、「登録を通じて」と「登録を通じずに」のいずれかであることを特定するものであると解されるが、「登録を通じる」場合と「登録を通じない」場合の二つの場合以外の「場合」が存在するとは考えられないことから、「登録を通じてまたは登録を通じずに」との特定事項の有無により、本願発明の特定事項は実質的に何も変わらないものといえる。」
これに対し、原告は、取消訴訟で以下のように反論している。
「本願発明は、「登録を通じてまたは登録を通じずに前記カラー反射率画像とOCTデータコンテンツとを結合することと」の構成を有するのに対して、引用発明は、「オペレータに表示することができる複数の」2次元の「領域画像」と、3次元の「一つのOCTスキャン画像」を一つの画面上に単純に「配置」しているにすぎないものであり、本願発明の上記構成を有しない。」
特許庁の述べるように、「登録を通じてまたは登録を通じずに」という記載は、その事象が「登録を通じるか、通じないかのいずれかにしかならない」のであるとすれば、論理的には、「全ての場合において」と述べているに等しく、何か特定の場合に限定されているわけではないと言えるだろう。
しかし原告は、引用文献(引用発明)には、「登録」という技術思想が現れていないことを主張している。
つまり、論理的にみて「全ての場合」に等しいとしても、引用文献に「登録」という技術思想そのものについての記載も示唆もないのであるから、本願発明は、引用文献にはない「登録」という新規な技術思想を開示しているという点が、原告の主張の拠り所となっているものと推察される。
この原告の主張は、非常に興味深い主張である。
発明を「技術思想」と捉えれば、技術思想そのものを発明の評価とすることができるため、従来技術にない新たな技術思想を開示したという点において、本願発明には新規性が認められるという考えは、論理的に整合する。
その創作である「物」が、登録を通した物もそうでない物も両方含む、つまり、「物」の構成要件該当性を判断する上で、「登録」という処理が実質的に貢献しないという「物」に対する評価ではなく、「登録」という思想を開示したことに価値を求めているからである。
一方で、発明を「創作」と捉えれば、「創作」として現れている物を評価することになるため、如何にその創作に新たな技術思想が潜在していたとしても、それが「創作」となって表れないのであれば、創作的評価には影響しないことになる。「登録を通じてまたは登録を通じずに」との発明特定事項はまさに、登録を通じない物も含まれる以上は、「登録」という要素によって創作として現れた物(発明)がさらに特定されているわけではなく、創作的評価には影響しないと言えるだろう。
この事例で知財高裁は、特許庁の審決を支持し、以下のように述べている。
「構成要件Dの「登録を通じてまたは登録を通じずに」の技術的意義について
本願発明における「カラー反射率画像とOCTデータコンテンツ」の「結合」において、本願明細書には、「カラー反射率画像とOCTデータコンテンツ」が同じ光路を共有して取得され固有的登録がもたらされる形態では、「登録」するための追加の処理が必要ではなく(【0035】、【0058】)、一方で、代替的アプローチである前記光路が共有されていない形態では「登録」を行うこと(【0059】、【0065】)が記載されているところ、前者の形態が本願発明の「登録を通じずに」に、後者の形態が「登録を通じて」に、それぞれ該当する形態であると認められる。
そうすると、引用発明の特定事項が、少なくとも「前記カラー反射率画像とOCTデータコンテンツとを結合すること」を満たすのであれば、そのような特定事項は「登録を通じてまたは登録を通じずに」のいずれか一方を必ず満たすものといえる。
したがって、「登録を通じてまたは登録を通じずに」の有無により本願発明の特定事項は実質的に何も変わらないとした本件審決の認定は、原告主張のように本願明細書を拡張して行われたものとはいえず、誤りがあるとはいえない。」
この事例は、特許庁も裁判所も、発明を「思想」ではなく「創作」として評価しているという見方に親和的であろう。知財高裁の「少なくとも「前記カラー反射率画像とOCTデータコンテンツとを結合すること」を満たすのであれば、そのような特定事項は「登録を通じてまたは登録を通じずに」のいずれか一方を必ず満たすものといえる。」との指摘は、「登録」という技術思想が現れていない創作であっても、発明的評価に影響はないという考えを示したものと推察することができる。
なお、ここで注意したい点が、本件で知財高裁は、「本件発明が登録を通じない物も含んでいる」という点から結論を導いていないということである。本願発明は「登録という処理を発明の構成として備えない物」も含んでよいのであるから引用文献にも開示されている、とは判断していないということである。
これは、引用文献に「登録」についての技術思想が記載されていない以上、引用発明は「登録を通じていないか否か」についても定かではないからであろう。
知財高裁が「本願明細書には、「カラー反射率画像とOCTデータコンテンツ」が同じ光路を共有して取得され固有的登録がもたらされる形態では、「登録」するための追加の処理が必要ではなく(【0035】、【0058】)、一方で、代替的アプローチである前記光路が共有されていない形態では「登録」を行うこと(【0059】、【0065】)が記載されているところ、前者の形態が本願発明の「登録を通じずに」に、後者の形態が「登録を通じて」に、それぞれ該当する形態であると認められる。」として、登録を通じた形態と登録を通じない形態のそれぞれの技術的意義を評価しているのも、この点に配慮したものと言い得るだろう。
つまり、「登録を通じて」という発明特定事項にも、「登録を通じずに」という発明特定事項にも、それ単体だけでみれば技術的な意義があるが、「登録を通じてまたは登録を通じずに」という発明特定事項になることで、創作的な評価は消失し、「登録」という思想的な評価のみが残ったため、審決のした「発明の特定事項は実質的に何も変わらない」との判断を支持したものと捉えることができる。
最後に、本件を通して、発明を「思想」として評価すべきでないとする、積極的な理由についても述べておく。
仮に、本件で、「登録」という思想が評価され、新規性や進歩性に寄与するとされた場合、「登録」という技術思想に限らず、その他の技術的な思想であっても、新規性や進歩性に寄与することになる。技術的な思想であるなら何だってよく、当業者が採用しないであろう技術思想でもよいのであるから、的外れな技術思想を開示するほど、当業者が容易に想到しないとされ、新規性や進歩性が認められやすくなる。
そうすると、例えば、「発明A」という物の特許と、「技術1を有しても有さなくてもよい発明A」という物の発明と、「技術2を有しても有さなくてもよい発明A」という物の発明のそれぞれに、特許が認められ得ることとなる。(その他にも、技術3、4・・・と、理論上は制限がない)
一方で、これらの発明に係る特許権を行使するときには、被疑侵害品が、これらの発明を充足するか否かについて、「物」として立証すべき要件に差はなくなる。「物」としての充足性だけならば、常に「有する」か「有さない」かのいずれかである以上、「技術1を有しても有さなくてもよい」も「技術2を有しても有さなくてもよい」も、被疑侵害品は充足することになる。
従って、「物」としての充足性という観点から見れば、複数の同一発明が、特許権として成立し得ることとなるわけである。(理論上は、数に制限なく、容易想到と評価されない技術思想の数だけ特許権が成立することになる。)
但し、発明が「思想」として評価されるならば、発明の充足性を判断するには、その被疑侵害品の中に「技術Aや技術B」の技術思想が潜在あるいは顕在していることが要求されることになる。顕在化している場合には、それは既に「創作」として現れているのであるから、立証に窮することはないだろう。だが、顕在化していない場合、「潜在的な技術思想」を立証するというのは、どちらの当事者にとっても酷なことである。
特許権者の側からみて被疑侵害品の構成には表れていない相手の潜在的な意図を立証するのが困難であることは明らかであろうが、相手方にとっても、「潜在的な技術思想」というからには、本人の意識を離れ、無意識的に採用していた技術思想も含まれ得るのであり、自らの無意識領域にまで掘り下げてその技術思想は存在していなかったということを立証しなければならなくなるが、自己の「無意識」を全て把握することは不可能といってよい。
このように、「創作」として顕在化しない「思想」領域の中で発明の充足性を争うことは。どちらに主張立証責任を置かれたとしても、酷であり、極めて困難である。そして、当事者の主張に基づきこれを判断しなければならない裁判所にとっても同様であるため、およそ健全に訴訟機能が働くとは思えない。
以上から、私はやはり、発明とは「自然法則を利用した技術思想」ではなく「自然法則を利用した技術思想の創作」であると考える立場である。
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